「犯罪捜査」のお題目はどこまで有効なのか?気になる最高裁の判断は?

個人的に注目しているのが、昨日2/22に最高裁大法廷で開かれた「令状なしのGPS捜査」に関する裁判。

 

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数年前から警察による捜査手法の強引さが度々指摘されてきたものの、「治安維持」や「犯罪捜査の必要上」という錦の御旗(個人的にはおためごかしもいいとこですがね)を振りかざし、やりたい放題。

 

 

例えば繁華街の防犯カメラも肖像権の侵害ですし、例を挙げればキリがありません。

 

 

「犯罪捜査以外には使用されないし、人権に配慮した上で適切な運用を行っている」とは当局の弁ですが、その運用状況が開示されないのであれば、戯言にしか過ぎませんね。

 

 

そんな茶番で国民が納得するかっつーの。

 

 

自分たちの都合のいいように独自ルールで運用している以上、公正な形で運用されているかなんて正直関係者以外わからんでしょ。

 

 

この裁判で行われた亀石倫子弁護士による弁論では、被告人との接見時のエピソードがこのように語られている。以下、引用。

 

 

《ここから引用》
ぼくのような人間に、言う資格はないのかもしれないけれど。
初めて接見した日、被告人は、このように前置きして話し始めました。
「警察が、僕の車にGPSをつけていました」
「ぼくは、ずっと監視されていました」
「警察は、こんなことまでできるんでしょうか」
本当にそのような捜査が行われているのか、確証はありませんでした。

もし本当なら、その捜査は、いまの法律では許されないのではないか。
しかし、そう主張することを、すぐには決断できませんでした。
GPSを取り付けたことを、警察は認めないかもしれません。
裁判に長い時間がかかると思いました。
被告人の身体拘束が、長くなるかもしれません。
私たちの主張は無視され、被告人の量刑が重くなることだってあるかもしれません。
これまでに、GPS捜査の対象になった多くの被疑者や被告人、そしてその弁護人は、そう考えて諦めたのかもしれませんでした。

被告人と、私たち6人の弁護人は、だからこそ、この裁判で主張しなければならないと思いました。
GPS捜査の実態はなかなか明らかになりませんでした。
捜査機関が、「秘密の保持」を徹底していたからです。
捜査段階で作られた多くの書類が、廃棄されていました。
開示された書類も、肝心な部分が黒塗りにされていました。
公判が始まるまで、1年かかりました。

この1年のあいだに、私たちは、警察が実際に取得していた位置情報の履歴を手に入れました。
数分おき、数十秒おきに、位置情報が検索されていました。
検索した回数は、ひと月に700回を超えることもありました。
私たちは、実際に警察官が、GPSを取り付けるために侵入した場所へも行きました。

ラブホテルの駐車場の入口は、厚いカーテンで覆われて、中が見えませんでした。
私たちは、GPSを手に入れ、車に取り付けて、追跡する実験をしました。
車が高速道路を走って京都方面へ向かっている様子
病院の駐車場に停車していること
宗教施設の敷地内に入っていったこと
スマートフォンの画面をクリックするだけで、手に取るように、車の動きがわかりました。

実験にかかった費用は、わずか、数千円でした。
私たちは、被告人に対しておこなわれたGPS捜査を、簡単に再現することができました。
そして、得体の知れないおそろしさを感じました。

このGPS捜査の実態を、長い間、国民の誰もが知らなかったのです。
これは、被疑者や被告人だけの問題ではない。
私たち、国民みんなに関わる問題だと思いました。
《引用おわり》

 

 

…何これ、すごい胸に迫るものがある…。

 

 

「犯罪者に人権はねぇよ」と言う人もいるでしょうが、正義と人権を守る警察がやることじゃないでしょ、コレ。

 

 

人間、誰しも生きる「自由」があり、真面目に汗水垂らして働く自由もあれば、悪さぶっこいて不正に大金を得る自由もある。

 

 

それが法に触れるものであった場合、その「自由」に対する代価を自分自身で支払うわけだから、人権問題はもっとクリーンに扱うべきでしょ。

 

 

最高裁が判決日を「追って指定」としているあたりにモヤッとしたものを感じますが、これが茶番に終わらないことを願います。

 

 

最後に、弁護士団による弁論の締めくくりの言葉を引用させて頂きます。

 

 

「権力の暴走を許し、権力が国民を監視する社会を選ぶのか、それとも、権力の暴走を止め、個人が強くあるためのプライバシーを大切にする社会を選ぶのか、この裁判が一つの分岐点になるでしょう」

「10年後、20年後に、私たちがこの裁判を振り返ったとき、正しかったと思えるような判断をしていただきたいと思っています。私たちの子孫がこの裁判のことを知ったときに、私たちを憎むのではなく、感謝してくれるような判断になることを願っています」